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Lee's Fiction
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古い城跡の真ん中を貫いて国道が通っています。両側は土台を残し高くなったところに樹々がおい繁り、その下の歩道をゆけば谷間を歩いているような気分になりました。とりわけ初夏は緑豊かで、崖の上にはネムノキのふわふわしたピンクの花を風に揺らしているのが見えるのでした。

国道はゆるやかな登り坂になっていました。城跡を過ぎると左側は平地になり、ガードレールの下は急に落ち込んで歩道も途切れてしまいます。右手には城趾公園と住宅があり、落差は左ほどではないけれど窪地で遊歩道の脇に小川が流れていました。しばらく窪地沿いに歩道を登ってゆくと、ファミリーレストランとその駐車場が小高い丘の展望台のように現れます。

駐車場から向こう側に目をやると平坦な街並みがどこまでも見渡せました。国道はこの先で右手に急なカーブを描いているので、突き当たりは崖で行き止まりになっているように感じます。今しがた登ってきた方を振り返れば、貫通した城跡がちょうど入口の門のように見えました。国道のゆるやかなスロープがそこまでまっすぐに伸びています。

もしも坂の真ん中を下ったらさぞかし爽快なことでしょう。車は国道をひっきりなしに走っていましたが、信号が赤になるたびに流れは途切れます。その時は丘の上から城跡まで片側2車線ずつのぜいたくな坂道をひとりじめ出来るかもしれません。

こよりさんはこの冬初めて50ccの水色のバイクを買いました。自転車のタイヤを太くして足台とエンジンを付けたような超小型のタイプです。小柄なので椅子の下にヘルメットを格納できるようなものは、倒れたらとても起こす事ができません。この型なら乗りこなせそうだと以前から目をつけていたのです。

勤め先はやはり高台にあり、曲がりくねった坂道を自転車で通っていました。地元なので電車に乗ることなく行けますが、路線バスだとわざわざ乗り継がなければなりません。だから車を除けば二輪車がもっとも便利で、スクーターバイクなら坂道がずっと楽になるはずでした。


丘の上のファミリーレストランはこの手のものとしてはちょっと変わっていました。おすすめはスパゲティなのにウェイトレスが大学の卒業式のいでたち(矢羽根柄の着物に袴姿)で現れるのです。店内の装飾は明治の開国期の横浜をイメージしているようでした。クラシックな洋館の趣で昼間も薄暗く、開店して間もないのに仄かにすえた匂いがしました。

最近こよりさんは気分転換にここを利用することが多くなっていました。会社の帰りに寄るのに適当な距離にあり、独特の内装が日常を忘れてくつろぐにはちょうどよかったのです。いつもキンと冷えた銀の器に丸く盛られたアイスクリームを注文しました。給仕の編み上げ靴の音がすいている店内にコツコツと響いています。時間をつぶそうと携帯電話のメールを見るけれど、こんな時は決まって誰からも来てないのです。


店を出るとすっかり春の宵でした。湿り気を含んだ柔らかい空気が草の匂いを運んできます。目の前の国道の坂を弱いヘッドライトをつけた夕刻の車が流れていました。カーブを曲がり開けた道に出れば思い切り飛ばしたくなるのが人情でしょう。坂の下の城跡までのわずかな距離にハイウェイさながらの光景が展開していました。『わたしもバイクで走ってみたいな。それも他の車が来ないうちにたった一台で…!』

自転車からバイクに乗り換えた時こよりさんの心境が少し変化したのです。風を切るスピードが格段に速くなったことで、日々の時間の進み方まで加速がついたかのようでした。初めて車道へ出て車の流れに加わった時には、学生から社会人になった頃の感じを思い出しました。のんびりした生活から一転、緊張しながらも社会の一員としての誇らしい気持ち。そして何か新しいことが始まる予感。この春真新しいバイクで丘をくだることが、自分にとっての通過儀礼に思えてきたのです。


三月の土曜日の午後、こよりさんはバイクで裏道から丘の上の駐車場までやってきました。眼下に広がる街並みに目をやれば、終わりかけの紅梅や満開の白梅がちらほら見えています。桜はまだ早いけれど、つぼみをふくらませあちこちでその時を待っているような気配が感じられました。

おだやかな春の日差しでした。心配していた風もごく弱く顔を撫でるほどです。これなら大丈夫、二輪車が風にあおられることも無いでしょう。あとは信号が赤に変わり車が途切れる時を待つだけです。

こよりさんはバイクを引いて駐車場の出口に待機していました。そして坂の上の信号が赤に変わったその時です。ひらひらと一匹の黄色いちょうちょが飛んできました。この春初めて見るちょうちょです!水色のバイクのまわりをひとしきりまわると黒く光ったシートに止まってしまったのです。ちょうちょはそこで羽を動かしながらも飛び立とうとしません。『困ったな、これじゃ出られない』

  
突然脇道から一台の車が直進車の来ない国道に飛び出しました。車はものすごいスピードで目の前を通過し坂を下って行ったのです。あっという間の出来事でした。こよりさんはびっくりすると同時に怖くなりました。もしちょうちょが来なかったら飛び出した自分とぶつかっていたかも知れません...。

ほどなく信号は青に変わり車の流れが戻ってきました。春の午後の暖かい空気があらゆる生き物の活動を後押しし始めています。少しひるんだこよりさんはもう一度チャンスを捕まえようとしていました。そして再び赤信号になると、バイクは国道に出て左へ方向を変えまっすぐ坂道を下って行ったのです!

 

それは素晴らしい体験でした。グレーに舗装された国道は両側の谷間の上に伸びる参道のようです。こよりさんの運転する水色のバイクは、たった一台春風を切って走っていました。早咲きの野の花がところどころ目に入ってきます。巣作りに忙しい鳥のつがいが頭の上をサーっと飛んでゆきました。

坂の下の城跡に着こうとした時、不思議なことがおこりました。両側の崖の樹々がワサワサ揺れたかと思うと初夏に咲くはずのネムノキのピンクの花が空一面をおおってしまったのです。あまり綺麗なのでこよりさんはついうっとりと見入ってしまいました。それはふわふわとはかなげで、けれど何かを伝えているような感じがしました。

 

次の瞬間、こよりさんに緊張が走りました。あたり一面ネムノキの花のもやがかかって、坂の下にあるはずの信号が見えないのです。意気揚々と丘を降りてきたけれどそれもここでおしまい、信号を渡っていつもの道を家に帰るつもりでした。これではどこが交差点かわかりません。そろそろ後ろの方から車も追いついてきたようです。

するとまた黄色のちょうちょがひらひら飛んできました。バイクの数メートル先をくるりと飛んだかと思うと、その姿が黄色信号のランプに変わったのです。こよりさんはびっくりしました。急いでアクセルを踏むと交差点を渡り切り、いつもの脇道へと入って行きました。



一週間たちました。春の気配はいっそう強まり花や鳥たちも生き生きとしています。こよりさんは坂の下の城跡の小道を歩いていました。水色の小さなバイクで丘を駆け下りてから、何かをやり遂げたようなすっきりした心もちでした。頬に春風を感じながらふと上を見上げると、崖の上のネムノキの姿がなくなっていました。左の崖は宅地造成のため茶色の更地になり、午後の強い陽ざしがさえぎるものなく降り注いでいます。門のように見えた城跡は片側の公園を残すだけでした。

ついこのあいだくぐり抜けた入り口が振り向けば閉ざされたかのようでした。門からの参道が丘の上まで続く風景は書き割りのごとく消えてしまったのです。城跡から春の丘へと続くドラマチックな景色はどこへ行ったのでしょう。そこには絶え間なく車が通るありふれた国道があるだけでした。

こよりさんはふたたび丘の上を目指して歩き始めます。鳥は空高く飛び、あたりはいよいよ花ざかりなのでした。










Lee's Fiction(小説)




春に丘をくだりぬ
(Descent the hill in the spring)